ホーム > イベント&キャンペーン > イベント > ギャラリー開催 過去の写真展 > 「東京写真月間2008」「耕」の時代 日本人の暮らし1950~70年代「宮本常一と歩いた九州・・・昭和37年」芳賀日出男
宮本常一との旅
民俗学者宮本常一と旅をしたのは昭和37年(1962)6月から10月にかけてである。
当時「世界大百科事典」を刊行中の平凡社は月刊のグラビア雑誌「太陽」の出版をはじめた。初代編集長は谷川健一(平成19年度文化功労者)であった。谷川は宮本を起用して全国の民俗の旅の連載に私を同行させ、写真を撮ることになった。
旅は九州からはじまり、壱岐、対馬、五島をめぐった。五島列島では宮本は最北端の宇久島に渡った。男でたった一人生き残っている80才の海士岩本五郎にめぐり会い、生業の実体にふれることが出来た。私にとって宮本との旅は日本民俗の深層を撮影する日々であった。
旅は南九州の種子島へと移る。そこで東京の編集部から受け取った電報は「ミンゾクノタビノキカクトリヤメ、スグカエラレタシ」であった。帰京してわかったことは、雑誌の営業担当者から離れ小島の貧乏物語では本は売れない、ヨーロッパのお城や東西の美術品で飾ったページを作ってくれということだった。家庭の電気製品が「三種の神器」とあがめられていた時代である。
宮本はそれでも種子島の旅を続けた。島の人びとは宮本を歓迎した。彼が努力した「離島振興法」が成立し、この島にも鹿児島市へ飛ぶ空港ができたのである。空便には病人と妊婦を優先的に乗せることを条件にした宮本案が実現された。島の人が宮本に飛行機に乗って帰ってもらいたいとすすめると、宮本は笑って聞き流していた。
平凡社の企画が消えた後も宮本は一人で歩き、15年後に「私の日本地図」を完成させた。そこに宮本の人生に確立されてきた根性を知る。宮本に導かれてきた私の写真は一回も使われることなく、長年の間ねむりつづけてきた。宮本の生誕百年目を迎え、彼の死後になって日の目を見ることになった。そのかみの三ヶ月間、気さくな宮本と旅しつづけてきた中から教えられたことが今もよみがえってくる。(文中の人名は敬称を略させていただきました。)
芳賀日出男(写真家)
出展数 半切・モノクロ 62点
(c)芳賀日出男
2002年より現在
長野県御代田町龍神まつり写真コンテスト審査委員長
文化庁後援(社)日本写真文化協会全国写真展覧会審査委員
2003年より現在
財団法人都市農山漁村交流活性化機構「むらの伝統文化顕彰」審査委員 個展のほか、企画展出展多数
【著書】
【連載】
朝日新聞社刊 「週刊日本の祭り」全30巻 監修 2004年
朝日新聞社 本紙連載「祭り紀行」 2004年~2005年
芳賀日出男監修 東京書籍発行「日本の祭り文化事典」 2006年6月
日本経済新聞 本紙水曜日「地球ハレの日」コラム連載 2004年5月より現在まで
ほか60余冊
【写真展】
【叙勲と受賞】
【現職】
(社)日本写真家協会名誉会員、(社)日本写真協会名誉会員、日本旅行作家協会、
(社)全日本郷土芸能協会、日本民俗学会、日本文化人類学会、日墺文化協会の各会員